昭和44年11月30日 朝の御理解 【入力者:岡村和一郎】
第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
これは、(ある?)ふつう一般、んー、ん、んー、んっ、これが御理解する思いといったようなものを、をー、子供に託するというか、親の願いを、おー、このようなふうに、えー、思い、または、言うて、えー、まあ嫁入りをさせたと。(親もいっぱいに言うと?)そうでしょうね。
(ああ、今時だんだん?)に変わってまいりましたね。もう向こうで自分が気に入らんことがあるなら、すぐ帰って来いといったような、あー、親達もだんだんあるようですけれども。昔からとこういう、昔はやっぱそうだったんですね。
いったん嫁行った、まあそこの、おー、ぁっあー、二度とそこを出たり行ったりするようなことがあっちゃならんぞと。心の辛い悲しいと思う時には、ね、持って行った鏡は、なら顔をきれいにするばかりじゃない、それで、どのように苦しいことがあっても、(くーらい?)顔をせぬように、そのための鏡だと。鏡は女の魂ぞというようなふうに、まあ家に持たせて、お嫁にやったもんでしょうね。
今日私は、ここの88節のところを、その必ずし、その、嫁に行くとか鏡を持たせるとかという意味ではなくて、えー、この88節ということ。8という字は、えー、繁盛の意味、意味が、ね、こう末広。だから、繁盛に繁盛を重ねていくという、88節というのは、そういう意味で(私は?)、この88節ということを、おー、感じたんです。この教典を見せて頂いて。ね。
繁盛に繁盛を重ねていくおかげを頂くためには、私は、この、おー、娘を嫁にやる時にというて、ここに御理解下さっておるような内容が、私どもの心の上に頂かれなければならないと思うのです。ね。
繁盛に繁盛を重ねると。ね。不思議にね、これは誰だって、信心さして頂く、まあ商売するなら、商売繁盛のおかげを願わん者はありません。で、だんだんおかげを頂いて、日々お取次を頂いて、繁盛のおかげを頂いてまいりますとですね、もう自分ところの繁盛のことだけしか思わんようになる。そこから一歩も出ろうとしない。
繁盛してると、それをもう、ただ、あー、もう減らすまいというようなことだけに窮々としてしまうというのが、人間の通用性です。ね。
昨日、おー、昨夜のご祈念に、久富さん達が夫婦で参ってみえて、お届けがございましたんですけども。うーん。(沈黙)お知らせを頂いておられます。(ね?)、あるご新信者さんのところを、をー、のお夢だった。
それが、現在、もういわば、たいへん繁盛のおかげを頂いておる。ところがその、今のような状態ではね、まあいうなら、入るとはどんどん入ってきよるっちゅうわけですね。(いや?)、お金ならお金がどんどん儲かりよるということなんです。ところがね、あのような状態では、必ず(止血?)すると、ね。そういうお知らせを頂いておる。
さっさと入って来よるわけなん。いうならね。ところが、今のような状態だと、必ず(止血?)すると。それだから、神様はそれでもやっぱ助けてやりたいから、ね、(早くどんどん?)参って来よるとっち。これはまあ、え、体の母体のことに、を例えて教えて下さってあると。ね。
だから、まあだんだん商売が繁盛しとかにゃどんどん入ってくる。ところが、今のような状態では(止血?)すると。ということは、たいへん苦しいことが起こってくると。おーそれ(?)から、ほんなこと久富さんそうでしょうがって、あそこの(?)見て(おんなさい?)。なるほど、お金はどんどん儲かりなさりよるばってん、(?)あのことやらこのことやら、たいへん苦しいことが起こってきよるでしょうがって(私が言う)。ね。
入ってくる、どんどん入ってきよる。家庭的なことよりもです、まあいろんな意味でです、主人には、上にも、子供達の上にもです、もうほんとに困った難儀な問題が、あんだけ繁盛のおかげを頂いて、そこんところの裏に行ったら、もうほんとに結構汚れたやろうけれども、(どっか?)その中には行き。ね。
だんだん(?)していくところ、はじめの間は、神様のおかげでおかげでと言うたり、思ったりしよったのが、もう自分の知恵やら力で、自分のやり方がよかけん、そのお店が繁盛しよるように思うておる。
信心を(せんために?)、だんだん薄うなっていきよる。(月次会?)ようやく、やっとかっとお参りができるというような状態。ね。ああいう状態では、いよいよ(否決?)が続いたら、今度はいよいよ(?)苦しゅうなってくる、苦しゅうなってくる。ね。
それでもやはり神様は、助けてやりたいから、ね、いよいよ(否決?)が続いて、いよいよ苦しいことになってくると、神様お願します、ということにまたなってくる。またはね、そういうことになってくるんでも、そういうおかげを、やはり(?)におかげを下さることのためには、ね、ね、(?)によっては、(浣腸?)してからでも出してやらなきゃできん。
ものによっては、(下痢を腹痛(はらいた)?)起こさせて、下痢でもさせて、させなければ体がもてない、というような結果すらなってくる。そこに久富さん、今はあなた方一家が一生懸命信心しようがあっておるのに、その上に様々な修行がある。それこそ、神様が求めてござっただろうと思われるような修行が続いておるが、ね、どれほど入っても、どれほど入っても、ね、どれだけのおかげを頂いても、一から十まで神様のおかげを頂かなければできることではない、神様のおかげででけておるんだという、思い込みを今のうちにしっかり作っておかんと、せっかく頂いたおかげで腹痛を起こしたり、浣腸されたり、ね、(ひけつ?)をして(ずーぐるうそなったり?)ということになってくるんですよ、それでは(?)ね。栄えに栄えるというか、ね、繁盛に繁盛のおかげを頂いてゆくということにはなってこないのだ。
はじめの間は、神様のおかげで、神様のおかげでとこう思いもする言いもしよるけれども、だんだおかげを頂いてくると、自分のやり方がよかけんでというような考え方になって、ね、いわゆる信心さえ、さえが薄うなっていく、神様のおかげでという思いすらが、だんだん薄くなってくる。
例え、薄くならんにしてもです、もうその頂いた財産を減らさんということだけに、一生懸命窮々とするようになったんでは、信心でおかげを頂いていくということはならんのだと。信心繁盛、ね。だから、その信心、そしてその繁盛というものがいよいよ繁盛に繁盛、(にはほにょ、こがさえて?)というような、ね、今年は豊年満作でと、ね、いう(ほのぼの?)咲くようなおかげを頂かせて頂くためにはです、ここんところをしっかり、お互いが分からして頂いとかなければならない。
そういう、おーお知らせを、お夢の中に、まあほんとにそれを一々申し上げると、まだ実感的に分かるだろうと思うけれども、ほんとにその通りですもんね、久富さんと言うて夕べ話したことでした。ね。
だから、私どもがおかげを受けた暁にですね、あいや、私はいくらどんなにおかげを頂いてもそういうことになりませんといったようなものではなくてです、ね、おかげを頂いた暁にじゃなくて、おっ、その、おかげを頂くその前にそのことの信心が身に、いよいよ付いとかなければいけんということ。ね。
そこで、どういうようなことに、私どもの信心がなっておかなければならないか、ということなんです。
嫁入りする時には、親が鏡を持たしてやる。それは辛い苦しい時に、鏡を立てて自分の顔を家族の者に嫌な顔を見せてはならん、そして、家を治めていかなければならんと、まあ88節には教えておられますがです、これは、( ? )お互いがいわゆる、「腹立てば心の鏡の曇ること」と教祖がおっしゃるように、お互いの心の中に、心の鏡があるのだ。ね。
ですから、私どものこの心の鏡がです、ね、曇らんように、その上、磨くことは毎日毎日たゆまず磨いていく。本当なことが本当にはっきりこれに映るようなおかげを頂かなければならん。
本当なことが本当に分かってこないところにです、繁盛したおかげでかえって(否決?)をするような、腹痛起こさなければならないような、ね、そのために、の(?)というものがついてくる。そこを気がつかない。ね。
だから、おかげを頂いてからではではです、なかなか、気に、気に、気がつかんのです。ですから、おかげを頂いた暁には、忘れはしません。おかげを頂いた暁には、こうもします、ああもしますといったようなことでは、もう絶対にダメだと。ね。
人間というのはそのように(きた?)、汚くできてる。だから、おかげを頂く前に、しっかり信心を頂いて、私どもの信心のその生き方というものがです、(?)本当の、間違いのない生き方というものがです、また、物の見方、考え方、思い方というものが、本当なことが思え、見れるようになるために、心の鏡を清めておかなけれならない。心の鏡に映ってくる。うぬ。家を治める前に、まず自分自身の心が治まらずにして、家は治まらない。ね。
昨日、おー、夕方、若先生が御本部から帰ってまいりました。えー、今度は、あー学院に修行生を出しておるところの教会が、全部御本部に集まりまして、それで、御本部で扱っておられる修行生一人ひとりの、おー、発表がありましたそうです。
それに、えー、こっから上野愛子さんが行っております。これは、成績の上においても、素行の上においても、もう現在の、百何十人かおりますでしょう、その、おー、修行生の中でも抜群だそうです。
もう、その、教えにね、本気で忠実に取り組んでおること、それから素行のこと、おぁー、それから修行のこと、その上信心ができますから、もう申し分がありませんち。「大坪先生、あなたん時と全然、丸反対です」っていうてから、冗談言われたっちいう。
おー、若先生だんの場合は、もういつーも睨まれてた、合楽、合楽の息子ちゅうだけで、もう睨まれとるとはいえ、その上そのわがまま勝手な信心をするもんですから、たいへん睨まれておった、あー、ことが私も通知がきとったん。
ところが愛子さんの場合はですね、もう、はふっ、もう抜群だと、言うことはないっち。ね。ただ人間関係で、その、いつも悩んでおられる。けど、それを一つ一つ信心で解決していかれるところが、また素晴らしいというて、もう褒め言葉ばっかりじゃったそうです。
(?)残して帰って来たわけですけれどね、ほんで、えー、泊りは、あの豊美のところの古川のお家に、まあ泊めて頂いたんだそうですが、たいへんおかげを頂いてから、豊美も、もうたいへんおかげの中に、まあ、あーお育てを頂いておるという感じである。
ほんとに、(とにかく?)そのー、朝から晩まで笑いが絶えないていう。とにかく、あ、もう豊美の言うことが、その言葉、言葉が分からんちいうわけですね。だから、おじいちゃんをはじめ、もう皆が九州弁の勉強をしよる。ほでもう、家中が九州弁で妙ーな言葉を使いよなさるけん、もう、いつもその、面白いっちいうてから言ってるんです。
私はですね、(嫁は寄るな嫁を飼育する?)という、(この嫁を?)ほんとに自分の家庭の中に、自分、古川の家なら古川の家のものにするためにはです、やはり、はじめから嫁を古川の、おー、あれに合わしてしまおうといったような教育の仕方ではなくて、まず嫁の方の勉強をするというぐらいなあり方が、素晴らしいと思うですね。ね。
それでいて、もう古川の家のそれは(ばちり?)とこう、もう全然、んー、食事から、あーその、違いますし、もう第一、する御用がございませんもんですから、もう勉強ばかりだそうです。
(そりゃ?)もうご承知のように、古川先生がああいう、うー、教団きっての学者(でなさい?)ますからね、ですから、もうテレビなんかでも、えーなんとかですね、あのー、おー、いうなら面白いことばっかりじゃないとのチャンネルがありましょう。
朝はそこをしばらく見て、その後のが、今度は家族中の者が、先生のその講釈を聞かなきゃならんそうです。ん。それもちょっときついらしいですね。
あーもう、歌やら踊りばーっかりしか、テレビちゃ見らんもんごと思うとったつが、もう難しいごと、それもしかも勉強していかなきゃならない。しかも、信心に基づいての御理解であり、む、その、おー、(?)のその問題なんかでも、(?)非常に、えー、えー、そのー、深い説明があるそうですね。テレビなんかで報道する以上のことが。ね。
というようにその、ほんとに古川の嫁としての教育もありよると同時に、今度は、その、おー、嫁の方に習わら、となろうとしておられるということろも、おー、あるわけですね。
(とにかくもー?)ほんとに、もう毎日が、家族、第一その、おー、おじいちゃまがもうたいへんな、あ、その喜びだというてから。とにかく、で、その雰囲気がね、あまりにも素晴らしかったから、もう雰囲気が悪くなら、もうすぐ隣が、金光、おー家ですから、そこが学院生の、学院の時、友達がおりましたから、そこ泊まるつもりじゃった。
けども、とてもとてもそげな段じゃなか、もう、ほんとにたいへんなおかげの中にあると言って、昨日帰ってきてお話をいたしております。ね。
(として?)そういうその家庭の中の、おー、雰囲気というか、生き方というのも、例えば心の鏡を曇らせることがない。わざわざ持って行って(とやに?)立てて見らなくてもいい感じがする。ね。
その上にです、例えば、ぴしっとこう、決めるとこは決めていって、信心お話を必ず、テレビを見た後に、そのそういう教育をしていかれるわけですよね。いわゆる、曇る、曇る前に磨いていっておる、曇る前にそのお掃除がでけておるといったような感じなんです。ね。
私、信心の家庭という(ふうな?)ものは、そういうようにありたい。しかもそれがです、ね、もう一段進めれて、信心の家庭がどのようなふうにあらなければならないかということを、家族中の者が認識していくということ。ね。信心のある家庭の者がです、ね、どのようなふうに日々あらなければならないかということを、認識を深めていくところのけいこ。
いわゆる、御理解71節の最後のところにありますように、「まめな時、ここに参って信心のけいこをしておけ」というのである。「まめな時、ここに参って信心のけいこをしておけ」ということはです、なーにもない、平穏無事、そういうおかげを受けておる時に、いよいよ、ん、磨いておけちゅうこと。
(あただに?)、ね、顔を曇らせなければならない、嫌な顔をしなければならないごとなってから、(?)を感じるようになってから、神様というたんじゃダメだと、私は思います。ふぁん。
「まめな時、ここに参って信心のけいこをしておけ」と。今、私が申しましたよう、信心さして頂く者の、自分自身の心を治めていくということ(だけではなくて?)、家庭を治めていかしてもらう。その治まっている時に、いよいよ磨いておけち。だから、(ほもほ?)が咲くようなおかげ、いよいよ、栄えに栄えていくおかげが頂かれるのである。
昨日、研修会がございました。おばあちゃん達ばかりが、皆集まっておる。信心の共励をなさいました。私も途中から入らして頂きましたら、久留米の佐田さんが、のおばあちゃんが発表しておられました。
昨日の朝のご祈念に一家中でお参りをさして頂きまして、帰らして頂きましたら、(きょうぞうっていうように?)、ね、いわゆる佐田さんですね、佐田さんのご主人が、家族中の者を、に言われることは、「もう今日の朝の御理解を、ね、頂いて、もうあの、おー御理解を頂いて、自分の家にあれを頂いていくことに極まった」と、ね。「今日からは、あの御理解を頂いてる境にです、うちの信心がここから切り替えられしていくぞ」と。
人の幸せと世のお役に立つことのために、合楽教会が躍進するようなこと(なってから?)、ね、人の世のしあわ、えー、人の幸せと世のお役に立ちために、佐田一家は、これから邁進するぞ、躍進していくぞ、というのである。
皆もその心で信心してくれよというて、えー、(教祖?)が頼むように、(あと皆に?)申しましたと、こう言われる。
御理解っていうのは聞くだけじゃない。ね。それをほんとに自分自身の上に、家庭の上に頂いていくということなんだ。ほんなこと、もう自分達の、まあ自分の子供や孫んこつばーっかり願いよったが、おかげ頂かんはずですのうっち言うちから、(そこのおばはん?)達も言うとります。
ほんとに、人の幸せと世のお役に立つことのために、佐田一家はこれから邁進するぞと。私は今日の88節、いよいよ栄えに栄えていくおかげを頂く、これが根本じゃなからなきならないということです。どれだけ栄えても、どれだけ繁盛してもです、もう家族中の者の、その信心の焦点になるところがです、いよいよ人の幸せのために、ね、いよいよ世のお役に立つことのために繁盛しておるんだと。
(とおる?)んところの例をとりましたようにです、ね、もう曇りようがない。心の鏡の曇りようがない、ような時にいよいよ磨いておけち言う。ね。ただ家族だけがそれで幸せでよいというのじゃあない。そこに、いわゆる時事解釈をされる時にです、信心が語られていく。
しかも、これは毎日毎日、行のようにあるわけ。ね。そして信心の家庭というものがです、ね、とりわけ、例えば金光家とか古川家ろとかいう、いわばそのー、お道の信心のおー、いつも、何ち言うんですかね、えー、(親戚の者が?)皆見ておるというか、ね、ある意味で仰がれておるというか、その家庭に、おかげ、縁を頂いた豊美さんが、古川家の人にならしてもらおうということは、(婚姻後?)のことなんだと。ね。
古川一家がほんとにおかげの手本を示さしてもろうて、そのおかげを、どのようなふうに、これから現していくかということが、古川家にかけられた神様の願いだというような、例えば、あーお話がですね、毎日毎日、少しは難しいけれども、時事解釈を通して、そういう、うー、説明を、いわば、そのー、いろいろに、まあ話してきかせられるということである。
佐田さんのとこのそれじゃないけれども、これからどれだけ佐田の家がおかげを頂いていってもです、そのおかげを頂いていくポイントというものはです、ね、いよいよ自分達が幸せになりゃよかといったようじゃなくて、人の幸せと世のお役に立つことのために、繁盛していくんだぞ、これからはと。その思い込みに一家中が変わってくれよと。もう今朝の、あの御理解に極まったんだと。これからの信心修行の、これからのみ教えを頂くのも、そこんところに焦点を置いての(お日参り?)であり、教えを頂くのだということになってきたというて、あのおばあちゃんが昨日、そのことを発表しておられましたが。
(んと?)素晴らしいことだなあとこう、思わして頂くと同時にです、今日の私は、この88節がです、ね、これならどんなに繁盛しても、例えばその、久富さんのお夢ん中に現れておるような、ね、入ってきて、入ってきて、なんぼでも入ってきたものが、(止血?)んよって、母体が苦しまなきゃならないといったような、かえって繁盛しよることが、家ん中に難儀な問題が起きてくるといったようなことが、まず起こらんですむようなおかげが受けられることを、私は信じます。ね。
おかげを頂いたのなら、こんな信心になりますというなのでは、もう絶対人間はダメです。そういう弱点を持っとるです、人間というものは。ね。だから、おかげを頂く前にです、神様がご覧になって、いよいよ本当のところに焦点が置かれるようになったと見極めて下さったところから、受けて、受けるところのおかげ。このおかげならば、私はこの88に通ずると思う。
いよいよ、ね、繁盛に繁盛のおかげの頂けれる基礎というものがでけていくと。「はあ、おかげ頂いたなら、もうどげな御用でんさして頂こうと思います」といったようなのは、まあしらごつです。
そん時思いよる(ごとしらごとな?)、実感かもしれませんけども、(みんの?)おかげを頂いてしまいますとですね、もうその金なら金を、(一人?)百万なら百万(貯める?)といたしましょうか。一千万なら一千万貯めたといたしましょうか。もうこの一千万をですね、減らちゃならないことに窮々といたします。
して一千万貯めりゃ一億円というような欲が出てですね、もうそのことんために窮々となります。ですから、そこに(止血?)が起こってくるわけです。ね。
けれども、それはどうでしょう、私どもの信心の眼目というものが、人の幸せと世のお役に立つことのために、私ども日々の信心生活がなされておるとするならばです、ね、もう、ね、そういう、私は受け物というかね、状態に現れてくるおかげであって、ほんとの繁盛のおかげというかね。
いわゆる、(ほんぶ?)が咲くようなおかげというのは、そこからしか生まれてこない。家の中を治めるというてもです、例えば、よし、心の鏡が曇っても難儀な問題が起こってもです、ね、それがです、人の幸せと世のお役に立つことのための修行だと思うたら、(こまいこまい?)ということになるのじゃないでしょうか。しかもそれが家族あげてそうであるというところ。ね。
今日の、私88節は、ね、いわば、あー、嫁入りをしていく娘に、うーん、まあ教訓として下さった、これはだいたい御理解であろうと思います。けれども、それをです、88節という、この88という、ね、繁盛に繁盛を重ねていくことのために、私どもが、心を曇らせない、人に悪い顔を見せんですむ、ね、いつもにこやかにしておれれる、いつも明るい私であれれる、そのことのためにです、私は、豊美んとこの例と、佐田さんとこの例を聞いて、皆さんに今日は聞いて頂きました。
鏡というのは、現物の鏡だけではなくて、お互いの心の中にある鏡。その心が曇ったら、ね、腹立てば心のこぐ、鏡が曇ると、こうおっしゃるが、ね。愚痴、不足を言うたら、心の鏡が汚れましょう。ね。
ですから、その、いわば汚れたから、拭くといったようなことではなくてです、ね、汚れを(拾う?)暇がないくらいにです、いわゆる、まめな時ここに参って信心のけいこをしておけ、何でもない時に本気で磨いておけ。ね。曇らん前に、毎日心の鏡の手入れだけは怠るなと。と、私は今日はこの88節から頂かして頂きました。
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない、心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよ」ということである。ね。よい顔をしただけで、例えば、家ん中が治まるとは思われませんけれども、何と言うても、自分自身の心が治まらずして、家の治まるはずがありません。ね。
その自分自身の心を治めるということがです、ね、自分自身の心が治まっていく、その上にです、その治まった心で私どもは何を祈り、願っていくかと。88、栄えに栄えていくおかげを頂かせて頂かなければなりません。ね。
そういう繁盛につながらしてもらうところの、おー、おかげを頂くためには、心を曇らせる暇がないほどしに、(※胸を2回叩く)、日ごろに磨いておく。その磨いた心に何を思うか、何を祈るか、どう行うていくか。それを、今日私は、人の幸せと世のお役に立つことのために、私ども一家、私一家は慢心しておるんだというようなですね、間違いのないところに焦点を置かれての信心であるなら、それもあります。ほんとにおかげを頂いて、もう絶対おかげを受けておる家があります。
けれどもその、そこんところの信心がでけれなかったためにです、おかげを頂いたけれども、頂いた時には、もうその、頂いたおかげをですね、もう自分のものにする、自分が(がま?)出したから、自分のやり方がよかったから、そしてそれを、減らすまい、減らすまい、ということだけに窮々としよっと、(ちゃんとひきずるごとしたような?)結果になってくる。
そこで、それでもやはり神様は助けなきゃならんから、(自分を殺しめよる)ようなことになられたり、浣腸してからでも出さなければといったような、苦しいことで、またそれがなされなければならないようなことではつまらん話ですからね。どうぞ。